『鉄の時代』クッツェー

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)


 アパルトヘイト下の南アフリカが舞台。ある女性が死を間近に、自分の人生とその人生につきまとわれた南アフリカを問い直すという本。

クッツェーは、少し前に『恥辱』を読んだ。正直、世間で賞賛されている理由が見えず、そうなるとますますその理由を知りたい!とこちらも読んでみた。


黒人と白人、その差別が根深い国で、両者の溝を埋めることはできない。黒人は黒人として生まれ、白人は白人として生まれる。生まれた時点で、その配役を割り当てられた人々は、そうあるべきものとして生きるしかない。そんな無限のループに脱力した。クッツェーの『人は生まれる国を選ぶことができない』という言葉が胸にささる。

が、そんなこの本。南アフリカの社会がどうというより、このおばあちゃんの偏屈さ、頑強さ、愛嬌のなさが半端なくて、最初とても不快だった。こんな女性、男だけでなく、女からもモテない!!娘が逃げた気持ちもわかる。同居人ファーカイルをこんな風に描写する箇所がある。

『ときどき彼はこういうことをするーーーわたしに逆らい、挑発し、わたしの神経を逆撫でして、苛立ちの徴候があらわれるのを観察するのだ。それは彼なりのからかい方だ。なんて不器用で、なんて魅力に欠けるやり方、気の毒になるくらい。』


ファーカイルは、元は浮浪者で居候だが、同居していくうちに、おばあちゃんにとってなくてはならない存在になっていく。それは、日々の生活の介護をしてもらうという意味でもあるし、なにより娘=次世代の人々に自分の人生を通して南アフリカという国の現状を伝達してもらうメッセンジャーの役割を担う重要人物。その意味で二人の関係は対等に思える。
のにも関わらず、彼女にとって思いやりとは「受けて当然 」なのだ。自分は彼に対して屁理屈ばかり。それは、病気のわたし、かわいそう!病気なのに娘がこないわたし、かわいそう!南アフリカで生きてきたのに、白人だからという理由で意見を聞いてもらえないわたし、かわいそう!!って自分への憐憫で溢れている。もちろん、クッツェーは明確に彼女に語らせるわけではないのだけれど、そういう思いが見え隠れする。まさに魅力に欠けるやり方で、周囲の人に接しているのだ。これが彼女に感情移入できない理由だろう。
そして、その感情移入のできなさがそのまま南アフリカ社会の溝であり、ひいてはどこの社会でもある溝となって迫る。黒人社会は、彼女の意見を受け入れることができなかったが、わたしもまた、一人の人間として、彼女のむきだしの感情を、同情こそすれ、受けいれることはできなかった。でも、それは彼女が南アフリカに住んでいる白人だからではないのだろう。これを読んで、彼女がわたしの隣人にみえた。世の中の多くの人は自分の感情を押し殺して生きてるのだろうが、わたしの隣人もまた自分に正直で素直だ。もしかして、どんな人でも、その人のありのままの感情に向き合うと受け入れることができないものなのかもしれない。そう思うと、大嫌いな彼女のこともなんとなく、温かい目で見ることができるようになる。この小説の受け入れがたさを突き詰めたら、そんな気持ちになった。